ヤンマ産業での実践〈前編〉
-デザインする人、作る人、売る人、使う人から考える産業形態
ヤンマ産業株式会社 代表 山崎ナナさん
聞き手:赤羽亨(産業文化研究センター長)
産業文化研究センター(Research Center of Industrial Culture、通称RCIC)は、IAMASの研究成果を産学官連携や文化活動を通して広く社会に活かし、様々な貢献をすることを目的とした附置機関です。
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赤羽:山崎さんは、2008年にヤンマ産業株式会社を立ち上げ、それと同時にアパレルブランド「YAMMA」(以下ヤンマ)をスタートさせていらっしゃいます。ヤンマとはどんなブランドなのでしょうか?
山崎:ヤンマのお洋服は、展示会でお客様に実際にサンプルを見ていただいた上で、注文をいただくというのが基本的な販売スタイルです。シンプルなデザインとともに、長く使える良いものを受注制で販売しています。
赤羽:『YAMMAの服にできるコト』という本から、ヤンマのことを知り興味を持ちました。今回は、ヤンマの成り立ちやコンセプト、また現在に至るまでのプロセスについてお話を伺えればと思います。
バックグランド
赤羽:山崎さんのバックグラウンドを教えてください。
山崎:学部は東京藝術大学の先端芸術表現で、その後同じ東京藝大の油絵科の大学院に進みました。
そもそも美大を志望したのは、工芸がやりたかったからなんですよ。
もともと伝統工芸が好きでした。漆が一番好きで、輪島塗りとか高松塗りとか、すごく渋いものが好きで、ああいうことがやりたかったので、そちらを目指していました。ただなかなか受からなくて、長く受験をしているうちにちょっと面倒くさくなってしまっていた部分もありました。
それから、伝統工芸も好きなんだけど、舞台も好きだったので、舞台の仕事をできたらなとも思っていました。ちょうど先端芸術表現科ができて、その1期の募集概要を見た時に、そこにステージアートっていうのがあったんで、「じゃあ、私ここ行こう」みたいな感じで受験することにしました。
赤羽:服を表現として作り始めたのは大学に入ってからですか?
山崎:そうですね。個人の作品制作とは別に、舞台のステージアートと舞台衣装制作をセットで色々なところでやらせてもらっていました。
赤羽:それは、独学でですか?
山崎:はい。ただお洋服は子どもの時から趣味で作れていた部分があったので…。まあでも独学ですね。とりあえず何とかなるだろうと思って引き受けている感じでした。
赤羽:それはすごいな(笑)。
山崎:なんとかするって感じで(笑)。
ただ、本当に何とかできていたんですよ。そもそも衣装を作れる人の絶対数が少ないので、舞台衣装の依頼が多かったですね。学生の間に10件くらいやりました。
私自身には、衣装を作ることに関しての強いポリシーやスタイルがなかったので、基本的に依頼に応じて作るというスタンスでした。
結局は舞台って、監督がいて、台本があって、役者がいて、ステージがある。要素が完全に決まっているんですよね。それに合わせて、私ができることを予算内でやるという方法になっていきました。
この感じはヤンマの服のデザインにも通じているところがあって、もともと私に作りたい洋服っていうのがあるわけじゃないんですよ。そもそも、お洋服のデザイナーになろうとは思っていないんです。でも洋服を作る技術は持っているし、きれいな形も分かっているから、デザインをして変なものにならない自信もある。だから極めてシンプルで、お客さんが必要なもの、お客さんが喜んでくれるものを作ろうって思っています。これが私の完全なモチベーションですね。
赤羽:大学院で油絵科に行ったのはどうしてですか?
山崎:学部の担当は木幡和枝先生だったのですが、「私、アート向いてないから、アートやめる」って彼女に相談したんですよ。
私は4年間学部で、とにかく社会について考えろって言われながら色々と作品を作ってきたんだけれども、色々やっているうちに、私自身が実践者として社会を変えたいと思い始めちゃったんですよね。ゴミを減らすということなら、アートでみんながゴミに対してもっとセンシティブになるように、意識が変わるようなことをするんじゃなくて、実際にゴミが減るような活動を私がしたいという風にどんどん変わっていっちゃってるのに自分で気づいたんです。
それだったら私はデザインの方が向いてるんじゃないかなって思ったんですよね。
でも、さすがにいきなりデザイン科の大学院には入れないだろうなっていうのがあったんで、油絵科で1回「ちょっと自分の考えていることを整理したい」みたいな感じで行かせてもらいました。
ただ、油絵科の先生はそれを知らないんで、「お前何しに来たんだ」みたいな感じで怒られたんですけど。でも2年間たっぷり時間もらって、自分がどういう方向性でやっていくか、その時に結構考えさせてもらいました。
実際には大学院2年生の時に妊娠したので、卒業していきなり仕事をスタートできたわけではありませんでした。でも先端芸術表現で学んだ表現者として、これからもアートではないけれども、デザイナーとして、ものの形だけじゃなくてコンセプトや人が関わっていけるシステムをデザインすることをやっていきたいという希望ははじめから持っていました。
ヤンマを始めるきっかけ
赤羽:ヤンマを始めるきっかけは何だったんですか?
山崎:実際のところ、大学で学んだ洋服を作り出すことをダイレクトに仕事にしていくことに抵抗があったのですが、現実的に仕事として選べるのは服を作る技術ぐらいしか持っていなかったことがあります。絵を描くとかは、お金を稼ぐ手段としては現実的じゃない。でも服を作るっていうのは、産業というか、仕事として大いにあり得るわけだから、服を作ろうと思いました。
でもただ服作っても面白くない。大学では人の考え方を変えるとか、物の見え方を変えるみたいなことに取り組んできたし、見過ごしてきたものに価値を与えることを常に問われていので、服を作ることで社会に対して何ができるのかを考えずにはいられなかった。じゃあ自分に何ができるかなと思った時に思いついたのが、洋裁師のおばあちゃんです。
赤羽:洋裁師のおばあちゃん?
山崎:マスプロダクトは作りたくないけど、それまでやってきたような舞台衣装みたいなことでも生きていけないというのがありました。そこで工場じゃなくて、周りに住んでいる洋裁師みたいな人たちを見つけて、洋服を縫ってもらおうと思いつきました。
いきなり洋服だとちょっと難しいかもしれないから、まずスクールバックから始めました。大学を卒業して自分で事業を始める前の3年間は派遣会社で普通のOLをやっていました。子どもがいたので、9時から5時までの安定した収入がもらえる仕事がしたかったんです。その3年間の間に保育園で使うために用意しなくてはいけないスクールバッグやベッドカバーなどがあったんです。
赤羽:入園時に親が用意しなくてはならないものっていうことですね?
山崎:そうです。各保育園によって規格が違うので、違う保育園を出た友達からもらおうと思っても、サイズが違うのでもらえないんですよ。そういう経験もあって、オーダー制でおばあちゃんに作ってもらおうと思っていたんです。
赤羽:おばあちゃんとはどうやって知り合うんですか?
山崎:学生のころ普通の一般の人の家に行って食卓の風景を撮らせてもらうというプロジェクトをやったんですね。夕食を食べている風景をでっかく引き伸ばしてゴミ捨て場に貼るっていうものだったんですが、子どもたちがめっちゃ笑顔でご飯食べてる姿の下に、ゴミがモリモリに積んであるみたいな風景を立ち上がらせました。
協力してもらえるご家族を探す時に、突然行って写真を撮らせてほしいと言っても怪しすぎるので、まずは当時の学校の近くの取手市役所に行って「こういうアートプロジェクトやりたいんだけれども、協力してくれる家庭を見つけてもらえませんか」と相談に行きました。そしたらその市役所の人が「めぼしいご家庭を探してみますね」って言って探してくださった経験がありました。
自分が商売を始める時もそれと全く同じノリで、武蔵野市役所に行って、市役所の人に「高齢の人で裁縫の得意な人を集めてもらえませんか」みたいな感じでお願いしました。そうしたら市役所の管轄のシルバー人材センターに話を回してくれて、高齢の人向けの会報に求人を掲載してくれました。その募集にどーんと30人くらい仕事したいっていう人たちが来てくれたんですよ。
赤羽:それがヤンマ産業の出発点なんですね。
山崎:はい、そうなりますね。
もうひとつには、要は無駄なものを作りたくないという単純な発想でした。
工場に発注すると、最低ロットが100とか1000からになっちゃうので、それをなるべく1個単位で、自分のほしい分だけを作れるようにしたいというだけの話だったんですよ。
雑貨を作っている中で、洋服を縫えるおばあちゃんが見つかって、洋服も縫ってもらうようになりました。ただ、オーダーの洋服となるとだいぶ複雑になってくるので、服に関しては予め決めた数を製作して、卸先を決めて作るというやり方を取っていました。
その後おばあちゃんたちと話しているうちに、おばあちゃんたち自身から新たな可能性というのを提案してきてくれたんですよね。はじめはミシンの糸を交換するのが面倒くさいかなと勝手に配慮して、1人の人には1色ずつしか渡さなかったんです。Aさんには黄色8個、Bさんにはピンク5個、Cさんにはグレー10個、Dさんには黒12個とバラバラに渡していたんだけど、「もっと色が混ざっててもいい」みたいなことをおばあちゃんから言われたんですよ。
その時はお洋服を縫えるおばあちゃんが5人くらいいたので、色展開を5色ぐらいで考えてやっていたのが、もっと混ざっててもいいってなると「相当色数作れるなあ」と。
それまでは例えばこの形は黄色を何個、何を何個って、売れそうな数をイメージして、私の方で決めて作ったんだけれども、「ピンクが1枚混ざってても気分転換になって良い」とか言ってくれるのであれば、むしろ買い手さんに全部希望を聞いてそれを作るようにした方がおばあちゃんの要望にも応えられるんじゃないかっていう風に思い始めました。それをきっかけに、それまでの卸しみたいな形態から、受注会というやり方に変えていったんですよね。最初はスカートとキュロットだけだったのが、段々とパンツやジャケット、シャツなどアイテムも増えてきました。
今は基本的に、こちらが提案した形?デザインを、30色ぐらいある生地の中からお客さんが選んで作れるという方式でやっています。結果的にこのやり方は機能してくれて、オーダーする人たちも満足してくれるし、縫ってくれる人たちも一生懸命やってくれました。
赤羽:取手アートプロジェクトでやっていた方法と、武蔵野市役所に行っておばあちゃんを探すっていう方法は同じだと言っていましたが、一方で2つは明らかに違う目的を持ったプロジェクトのようにも思います。
山崎:そうですね。私はヤンマ産業っていう会社名に「産業」を意図的に含めた時から、自分が認められる形式のアパレル産業を考えていきたいという思いを強く持っていました。
私はお洋服は好きだし、これまでの人生でもお洋服自体は楽しんできましたが、現状のアパレル業界というのが全然好きになれないし、ファッションという流行みたいなものに興味がないんです。自分が服を作るってなった時に、あそこに巻き込まれるのかと思ったらすごく嫌だったんですよね。なので、当初から私のやりたい形でアパレル産業を立て直すという、強い意識を持って取り組んできました。
赤羽:山崎さんのスタンスが特徴的なのは、消費者だけを相手にしたシステムを作ろうとしていないという点です。消費者だけのことを考えて新しい産業の構造とか仕組みとかシステムとかを考えていたら、マスカスタマイゼーションという方向性もあると思うんですよ。だけど、山崎さんはそういう方向ではなくて、デザインする人も使う人も含めた回路を作って、それを社会の中で機能させることを志向しています。
大学で行っていたアート表現はどちらかというと、物事の見方を変えるような表現を使ってみんなのマインドを変えていき、それで社会や世界を変えていこうというアプローチを取っていたと思います。一方で、ヤンマ産業での取り組みでは、より直接的にそこに関わる、デザインする人、作る人、売る人、使う人たちが関わり合う仕組み=システムをデザインして、産業として機能させることを実践していますよね。
山崎:そうですね。
赤羽:そういう意味では、大学の時から持っていた問題意識に独自の表現でアプローチし続けていると言えますね。
ヤンマの方法論
赤羽:雑貨を扱っていた時からビジネスとしては順調だったんですか?
山崎:雑貨の時はやっぱり全然回らなくて、というのも、ポーチって何個もほしいものではなくて、1個あれば十分なんですよね。なので、たとえ良いものあっても、たくさん買ってもらえるわけではありません。
赤羽:では、洋服を扱うようになってからビジネスとしては回り出したんですね?
山崎:そうですね。ポーチは1個で十分でも、シャツなら5枚でも10枚でもほしいですよね。白いシャツは持っているんだけど、白でも少し違うものがほしくなったりもします。やりながら気づかされたことですが、お洋服に対する人のモチベーションって、雑貨へのものとは全然違うんですよね。そういう意味でお洋服を作るっていうのはすごい産業だなとは思いましたね。
赤羽:お話を伺っていると、そのあたりを狙って洋服を扱い始めたわけではなく、ある意味成り行きで事業を発展させながら、結果的にビジネスとしても回るようになったいう感じでしょうか。
山崎:そうですね。
でも、お洋服の方がお金になるっていうのが先にあったというよりは、お洋服を作るとお店さんが喜ぶというところが大きかったんです。それは単純に、単価が大きいからです。
お店さんにとって、ポーチを1個一生懸命「可愛いですよ」と説明して売るのと、お洋服1枚説明するのと、ほとんど同じ労力なんですよ。それもあって、「お洋服も作れるんだったら、ヤンマさん、お洋服作ってください」って言われるようになりました。お客さんもほしいものが買える、お店さんも売るとうれしい、私ももちろんお金にもなるし、縫い手さんもお金になるっていうので、どんどんお洋服の方にシフトしていきましたね。
赤羽:「誰も負けてない状態」がシステムとして回るような関係性ですね。
山崎:みんながハッピーな関係性に収まっていったというのが実感としてありました。ただ、その反面上手く回り出すと、だんだんと、それぞれの立場で効率良くやりたいっていう気持ちが湧いてくるんですよね。
お店さんからの要望、お客さんからの要望など、みんなの欲が違う方向に向き出してしまって、思いついたことをそれぞれ言い出す感じになってしまう…。いや、思いついたことを言うのは全然良いことなんです。
例えば、当初は1cm刻みで対応していたサイズ変更を5cm刻みで変更できるようにするとか、サイズ変更が発生しないようなオフショルダーのデザインにするなど、なるだけ簡単なサイズ変更で対応できるようにすると、良い方向に改革が進むということもあります。
でも、必ずしも良い関係性を維持できる提案であるとも限らないというところもありました。
今年「サイズ変更が手間だから、サイズ展開しようか」って私が思い立ったんですよね。サンプルの中に、MとL、2サイズを作っておいて、お客さんはまずそれらから選ぶ。そこからどうしても変更したいという人がいたら変更するっていう風にすると、サイズ変更が減って楽になるんじゃないかって。
山のように同じ黒のワンピースが10枚とかある中で、1枚だけ丈が長いとかね。変更した仕様を書いた布をピンで止めて、これが5cm短いとか長いとか分かるようになってるんだけれども、結局そういうサイズの多様性がスタッフや現場の仕事を増やしているんじゃないかと思って…。
赤羽:経営的には効率化は重要ですよね。
山崎:ええ。それでなるだけサイズ変更をなくしていこうと提案したら、「でもそれができなくなったら、ヤンマじゃなくないですか」ってスタッフが言い出したんですね。「合理的にやることがそんなに大事なことなんでしょうか」と。
でも、縫う人たちも大変だと思うから、「縫う人たちの意見も聞いてみましょう」ってなって実際に意見を聞いたんですよね。
今縫う人たち10人くらいいるんですけど、代表の2人に、仕分けも大変だし、とにかく申し送りが大変だから、「サイズ変更大変じゃないですか」って聞いたら、「実は言おうと思ってたんですけど、仕事がある方が嬉しい」って言われたんです。ヤンマさんがサイズ展開に方針転換すると確かに私たちの仕事は楽になるけど、それでお客さんが離れていっちゃうくらいだったら、面倒くさくてもその仕事がしたいって。それで踏ん切りがつきました。
お洋服作る上で一番手間がかかる段階ってカットなんですよ。場所がまず必要で、広いところに布を拡げなくてはいけない。その上で1回1回布を平らにならしてカットする必要があります。縫うのはこれが1cm長いですねって測ればいいんだけど、切る時っていうのはすごく神経を使います。
基準より幅を小さくしたいものは、例えば50枚まとめてカットしたあとに、1枚小さくしますってことはできるんですけど、幅を大きくするのはそうはいかないんです。なので、そういう手間のかかる作業にはエクストラで工賃をきちんともらった上で、サイズ変更はこれまで通り続けるということになりました。13年目にして行き着いた結論です。
コロナ禍があって、ここからお客さんが減るかもしれないっていう時に、リアルに本当に自分たちがどうしたいのかって話し合った結論が、なるべくお客さんのニーズに応えたいし、できる限りの仕事がしたいというところに行き着いたのは、私の中ではめちゃくちゃ面白い話だったんです。
赤羽:特にヤンマのお客さんたちはサイズ展開を求めていないっていう、従業員の方の意見は正しいかもしれないですね。吊るしで全部売っていたら、いま提供している価値がなくなってしまうのかもしれない。もしかしたらオーダーすることとか、届くまでに少し待つこということも含めての価値なのかもしれませんね。それから、作ってる方の立場を考えると、ちゃんと手間暇をかけて作っているんだっていうところも、仕事量っていうことだけでは測れない、特別なモチベーションに繋がっているのかなっていう気はしますよ。
その辺のみなさんの意見を汲み取って、今の形態に落ち着いたって感じですよね。
山崎: そうですね。だからもう1回、始めの頃みたいな勢いが出てきた感じです。
細かいサイズ変更に対応するということで、お店さんはまた少し面倒くさいことがあるかもしれないけれど、お客さんが自分の思い通りにできることの方が良いことだろうし、それが結局みんなにとっても喜ばしいことだというのを、話し合いを通して決めることができました。今更ですが、コミュニケーションは本当に大事ですね。
赤羽:本当にそう思います。
山崎:それでみんなが納得して始めると、自分たちのやっていることが非常に誇らしくというか、喜ばれることやってるっていう認識になるんで、多分その面倒くさいっていう気持ちがすごく減ると思うんですよね。
もともと、ヤンマを始めた時にとったやり方が、一般的に面倒くさいと言われている部分を私が引き受けた上で、おばあちゃんたちと商品を作っていこうとしていたんです。私がおばあちゃんのところに材料を持って行って、できたものも私が販路を考えるというように、可能な限り面倒くさそうなところは全部引き受けた上でシステムを考えていこうと。もともと面倒くさいことをやっていくことが一番はじめのヤンマのテーマと言っても良いかもしれません。今はそれをみんなが共有してくれているというか、面倒くさいのは当たり前と思ってくれていますね。
赤羽:今おっしゃっているのは、一般的には面倒くさいことだけれど、その面倒くささを可能な限り引き受けてシステムを考えていこうというのが、もともとのヤンマのテーマにあるということですよね。
しかも、ある価値が共有された時には乗り越えられる面倒くささというものがあって、ものごとが上手く回るのであれば、それはもはや言葉通りの面倒くさいことではないということですよね。そういう考えが山崎さんだけじゃなくて、周りの人たちにも浸透していて、それが今のサイクルを支えているということですよね。
山崎:はい、すごい浸透しています。
後編に続きます
編集:山田智子