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「(人間/テクノロジー)→世界」による新しい存在の形成と世界への向かい方

島影 圭佑(デザインアクティビスト)

 Art for Well-beingは一般財団法人たんぽぽの家が母体となって運営されている「表現とケアとテクノロジーのこれからを考える」プロジェクトである。本プロジェクトの全体監修をIAMASの小林茂教授が務める。その2022年度と2023年度の取り組みを紹介する展覧会「Art for Well-being 表現とケアとテクノロジーのこれから」が東京?渋谷にあるシビック?クリエイティブ?ベース東京[CCBT]にて開催された※1。本欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网では本展を中心にしながらも、Art for Well-beingというプロジェクト全体について、また小林茂教授(以下、茂さん)の近年の思索がまとめられた『テクノロジーの〈解釈学〉』へと対象を広げ、私自身が茂さんたちの実践や思索から刺激を受け発想された思考を綴っていきたいと思う。

展覧会「Art for Well-being 表現とケアとテクノロジーのこれから」の入口(写真:島影圭佑)

Art for Well-beingにおける実験とその産物

 茂さんの『テクノロジーの〈解釈学〉』はひとつの意味やイデオロギーに一元化されてしまうテクノロジーを多元的なものとして解釈するための新たな論理を用意しようとしている。関連する哲学研究を経由しつつ、ときにメディアアートの起源といえるであろう事例に遡行しながら、それに取り組む。
 また同時になぜテクノロジーが一元的なものになってしまうのか、そして多元的なものへと移行するために横たわっている諸問題も明らかにされていく。そこにあるあまりに大きな問題への向き合い方のひとつが「実験的な」プロジェクトであろう。Art for Well-beingはまさにそのようなプロジェクトであると思う。
 CCBTで展示されていた成果物は、探究的であるという意味で挑戦的な種々の実験の産物であったように思う。まず会場に入って緒方壽人さんが監修の〈WAVE: なみのダンスとMR〉を体験した※2。VRゴーグルをかぶってすぐ、気付けば私はかるく踊っていた。今までブラックキューブだった空間が、気付けばいつの間にか踊ってしまう空間に一瞬で変わっていたのだ。

〈WAVE: なみのダンスとMR〉のVRゴーグル越しの景色(写真:たんぽぽの家)

 次に筧康明さん監修の〈とけていくテクノロジーの縁結び〉の映像作品を椅子に座ってゆっくり観た※3。後日であるが、そのパフォーマンスをふりかえる座談会があり、それも視聴した。長年、メディアアートの制作やHCIの研究に独自のスタイルで取り組んでこられてきた筧さんが、身体表現者三人の即興パフォーマンスの中に、いかにテクノロジーが介入しうるかを試行錯誤する、その空気感や緊張感が感じられる映像作品や座談会であった。

〈とけていくテクノロジーの縁結び〉のパフォーマンス時の風景(写真:たんぽぽの家)

 最後に、たんぽぽの家のスタッフの小林大祐さんに当時のワークショップの様子をうかがいながら、徳井直生さん監修の〈音との新たな出会いを生み出すAI〉で、AIプラグインNeutoneを体験した※4。Neutoneは音色生成AIによって「音?楽」の制作を今までとは違う方法で多様な人々にひらく可能性を持つものだ。おそらくサウンドアーティストによる一般的なフィールドレコーディングでは、音や音楽への一定の読み書きリテラシーによって、フィールドの音から特定のリズムや音色などを知覚し、その音を記録したものを素材として編集し作品化しているように思う。だが例えば私のようなそのようなリテラシーがあまりない人にとって、その知覚感覚の獲得には一定の訓練が必要である。Neutoneは多様な人々が音と音楽のあわいをより身体的に探求できる新たなツールであろう。本作において、そういった生成AIがひらく別の可能性を体感させてくれた。

〈音との新たな出会いを生み出すAI〉で使用されたAIプラグインNeutone(写真:衣笠名津美)

Art for Well-beingとテクノロジーの〈解釈学〉

 Art for Well-beingに関しては、たんぽぽの家や茂さんたちの丁寧なしごとによって、ウェブ上に活動の様々な記録が上がっている。また今後、プロジェクトの記録によって構成されたドキュメンタリー映像の上映会なども予定されており、多様なかたちでプロジェクトが「ひらかれて」いる。ぜひ本欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网を読んでいただき、ご興味を持っていただけた方は、なんらかの「現場」への参加をおすすめする。紛れもなくArt for Well-beingは生きたプロジェクトであり、ナマモノである。まさに「プロジェクト」という形式を完全に乗りこなし、実験性を担保しながら、その過程を多様なかたちでひらいている。プロジェクトという形式のいち事例として、そのスタイルを見ていくだけでもいろいろなことが考えられそうである。
 また先に触れた『テクノロジーの〈解釈学〉』も、本欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网執筆時点で草稿第三版のPDFがウェブ上で公開されている※5。こちらもぜひ読んでいただきたい。本テキストでは人工知能、技術の哲学、ネオ?サイバネティクス、ベルクソンの時間論を横断しながら論理を編み、また参照する具体的な「場」としてMaker Faire、そして本欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网の中心主題であるArt for Well-beingが登場する。それらを丁寧かつアクロバティックに繋げながら「テクノロジーの〈解釈学〉」へと踏み出す、挑戦的なテキストである。

テクノロジーの〈解釈学〉草稿第三版(写真:小林茂)

 

 茂さんのMaker Faireという共同体ないし運動に関わり(また、ときに自らが総合ディレクターとしてOgaki Mini Maker Faireを運営する)Art for Well-beingというプロジェクトの実践、作品の制作などを通じた肉体的な感覚と、哲学研究者や基礎情報学研究者との研究会等を通じて生まれた思索がひとつの草稿として結晶化したテキストであり、茂さんの近年の活動が凝縮されたテキストでもあるように思う。
 本テキストでは一貫してテクロノジーの多元性に焦点を当てている。いかにしてテクノロジーを一元的なものから多元的なものとして解釈しうるか。それを様々な角度から検証し、可能性を見出そうとしている。本テキストでもArt for Well-beingを事例にそれが考えられているが、本欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网では茂さんのテキストを足がかりに私なりに今一度それについて考えてみていきたい。

「生活としての芸術」を実践する人たち

 私自身も障害福祉、情報技術、そしてデザインが交わる領域で活動をし続けてきた※6。そのなかで「生活としての芸術」を実践するユニークな福祉事業所やアートプロジェクトなどに出会ってきた。ここでの「生活としての芸術」とは、その名の通り生きていく営みの中に自然なかたちで創作活動が織り込まれているような、そういった活動、あるいは生き方を指している。私の仮設的な造語ではあるが、本欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网ではこの言葉で作者や彼/女らと共にある人たち、その作品について触れていきたい。
 私が2019?2021年頃に関わらせてもらっていたTURN※7というプロジェクトで、生活としての芸術を実践する人たちの作品を体験し考えていく機会を提供してもらっていたように思う。TURNの展覧会で作品を鑑賞したり作者や彼/女らと共にある人たちと交流したりする中でそれを体感しつつ、TURNのプロジェクトデザイナーのライラ?カセムさんから日本特有の福祉事業所とアートの関わり方、その実践についてお話をうかがっていた※8。ライラさんからもたんぽぽの家の話をうかがったり、私自身、自分のプロジェクトの中でたんぽぽの家のスタッフの方々との出会いがあったりした。同時に当時からお世話になっていた茂さんやデザインリサーチャーの水野大二郎さんがたんぽぽの家と協働でプロジェクトに取り組んでいるなど、とりわけユニークで先駆的な福祉施設及びアートセンターとしていつも刺激をもらっていた。
 また2022年の年末、たまたま自宅で「朝までno art, no life」※9という三時間ほどのNHKの番組を観た。というか完全に見入ってしまった。「no art, no life」という番組が毎週日曜日の朝に五分ほど流れているらしく、「朝までno art, no life」では今までの放送分の映像をつなげて、番組に関係する三人がそれを鑑賞しトークをするという構成だった。先に触れたようなユニークな福祉事業所、NPO、アートプロジェクト、またそういったところに所属せずインディペンデントに制作活動を行なっている人々に密着しドキュメンタリーを撮影する種のものだった。その番組内でも作者や彼/女らと共にあるひとたちの日常の空気感を感じることができた。
 また最近だと、東京都渋谷公園通りギャラリーで開催されていた「共棲の間合い -『確かさ』と共に生きるには-」※10という展覧会を観に行った。
 特に目当てにしていたのは酒井美穂子さんの千個以上の袋麺によって構成されたインスタレーションであった。滋賀県にある福祉事業所やまなみ工房に所属する酒井さんは17歳のときに「サッポロ一番しょうゆ味」の袋麺に出会い、それ以来三十年以上常に袋麺を携帯し握りしめ親指で感触を楽しんでいる。
 やまなみ工房ではあるときから、酒井さんが触り終えた袋麺にその日の日付を書いた付箋を貼り保管するようになった。展示されていた酒井さんや彼女と共にあるスタッフの方々を被写体に撮られた映像の中で、スタッフの一人が酒井さんの袋麺の「握られよう」からその日の酒井さんの気分や感情などを想像することがある旨を話していた。
 また同会場で京都で活動する株式会社NPOのスウィングに所属する人々の作品や活動も展示されており、私は特に詩の作品に見入っていた。

社会システムを中抜きして宇宙と繋がる

 この言語化が正しいのかかなり自信がなく不安なのだが、生活としての芸術を実践する人たちの作品を前にして私自身が見入ってしまっているとき、ひとつの感覚として「作者が社会システムを中抜きして宇宙と繋がっている」ように感じるときがある。いまこれを言葉にしてみて、かなりスピリチュアルなことを言ってしまっているな…と自覚しつつ、感覚を素直に言語化するとこうなってしまうというか、現状これが限界なので、やむをえずで申し訳ない。
 そしてその作者と宇宙が繋がっている感覚から、過度に社会化している自らの身体を省察し、自分はなぜこんなに社会化してしまっているんだとひとり頭を抱えたりしている。他方で、自分自身が限られた特定の条件下?環境下において社会システムを中抜きして宇宙と繋がっていると感じる状態に一時的になっていると思える瞬間もあるし、自分の友だちから感じることもあり、その時は同時にその友だちがそうなる条件や環境それ自体がよく分かるときがある。
 私自身、生活としての芸術を実践する人たちの作品を観るとき、その分野の文脈よりもかなり自分に引き付けて観てしまっているように思う。そのときに考えるのが、使う道具、それを含めた環境、そしてそこで流れる日常という時間について、である。

自分が文章を書いてるときになにが起きているのか

 例えば、いま私は文章を書いている。道具は主に400字詰めの原稿用紙とペン。もう少し広く見ると、机と椅子があり、茂さんのテキストを自分で簡易的に製本したものが目の前にあり、ときどき調べ物をするのにラップトップがある。また書き物をするときにいつも聴いている音楽がありそれが流れていて、あとはあったかい珈琲だったりお茶だったりがある。基本的にはかなりまとまった時間を確保して、自宅の自室で書く。他の人がいるところや、急に人が入ってくるような場所だと書くことができない。
 茂さんの『テクノロジーの〈解釈学〉』の第二章技術の哲学の2.3ポスト現象学?SCOT?ANTにポスト現象学で提唱された関係性の一覧という興味深い表がある。また第六章テクノロジーの〈解釈学〉への6.1.3分析と記述で、Art for Well-beingのプロジェクトの一環として実施された前述の音色生成AIツールNeutoneを用いたワークショップに対して、先のポスト現象学で提唱された〈人間―テクノロジーの関係性〉の観点から分析していく記述がある。ひとつのワークショップの期間だけをみても、次々と人間とテクノロジーの関係性が入れ替わり、変容していっていることが分かる。

『テクノロジーの〈解釈学〉』内で登場する〈人間―テクノロジーの関係性〉の一覧表

 おそらくだが、今現在の文章を書いている行為を中心に「まず依頼をいただいて、茂さんのテキストを読んだり、Art for Well-beingのアーカイブを観たりして、欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网の執筆に取りかかり、自分で手書きの原稿をデジタルに文字起こしして推敲し、茂さんやたんぽぽの家のみなさん、そして依頼者の方に確認していただき、フィードバックをもらって、アップデートして、最終入稿し、ウェブ上に欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网が公開される」というこの一連の過程を先の〈人間―テクノロジーの関係性〉で分析すると、ここでも人間とテクノロジーの関係性が次々と入れ替わり変容する様が記述できそうである。
 そしてその中でも特に「身体化関係:(人間―テクノロジー)→世界」と「融合関係:(人間/テクノロジー)→世界」の状態の瞬間に着目してみたい。
 まず先に挙げた原稿用紙、ペン、机、椅子、音楽などなどは、人間=私と身体化関係にありそうである。それぞれのテクノロジーは使用者=私によって身体化され使用者=私の中に組み込まれ、人間=私と世界とのあいだの関係がそれぞれの技術的人工物を介してつくり出されている。これはまさにインタフェースや近代デザインの話で、デザインされた人工物の習慣/慣習的な使用によって特定の作業が可能になっている。
 それらによって十分に満たされた時空間の中で、人間=私は次の状態に移行する。「融合関係:(人間/テクノロジー)→世界」の状態である。ここでのテクノロジーは主にペン、原稿用紙、そして文字であろう。「(私/ペン?原稿用紙?文字)→世界」という関係性。人間=私とテクノロジーが一緒になって、人間と非-人間の要素を統合したハイブリットな方法で世界に向かう「新しい存在」を形成する。
 文字を書くという行為において、それを構成する個別の作業が成立しているという点において、それは身体化関係でもあるが、ただ単純に作業が成立しているだけではなく、書く機械的人間としてなにかを前に押し出す、産出する新しい存在として世界に向かっているように思う。
 そしてこれは先に触れた生活としての芸術の例に当てはめても同じく考えることができそうな気がする。例えば酒井さんにとっての袋麺は融合関係にあると思う。「(酒井さん/袋麺)→世界」の構図。酒井さんと袋麺は融合し新たな存在として世界に向かっている。そしてやまなみ工房のスタッフはその新たな存在となっている状態の酒井さんを知覚し、新たな存在として世界に向かう方法を他者に伝え、その世界の向かい方をインスタレーションをはじめとした展示化によって流通させている、と見ることができそうである。

画材の多様性

 茂さんがArt for Well-beingのプロジェクトで試みていることのなかで、私が強く関心を持っていたのは、生活としての芸術を実践する活動の中で「(人間/テクノロジー)→世界」という融合関係において、生成AIやXRなどの先端的と言われるテクノロジーがいかにして当事者と融合関係を結ぶか、その探求部分であった。
 融合対象とする広義の画材の選択肢が多様になる世界観において、まず新たな広義の画材との融合によって新たな存在や世界への向かい方が発明される。次にその広義の画材に新たな解釈が与えられるであろうと思う。当人と画材との関係性から別の意味が再発見されうる。そして、これはテクノロジー側の多元性に寄与するものとなるだろう。

(人間/テクノロジー)→世界―¦―宇宙

 冒頭にArt for Well-beingの展覧会に出展されていた三つの作品を紹介したが、いずれも共通しているのは先に述べた「実験的」であるということだろう。Art for Well-beingのはじまりには、たんぽぽの家アートセンターHANAで活動するアーティスト武田佳子さんの存在がある。武田さんは創作活動を油絵からスタートさせ、そこから体力的に油絵の手法を取ることが徐々に難しくなり、パステル画、水彩画へと移行していった。同時に一人での制作が難しくなりアートサポーターとの共同制作となっていった。身体が変化しながらも創作活動への意欲を持ち続ける武田さんの存在に後押しされArt for Well-beingがはじまった。
 これをはじまりのきっかけとしながら、茂さんらが手がけるプロジェクトでは、より本質的に「表現とケアとテクノロジーのこれから」を考えるための領域設定が行なわれ実践が行なわれている。
 端的には「創作支援におけるテクノロジーの開発」というかなり固まった文脈がある領域での実践ではないように思う。むしろ「(人間/テクノロジー)→世界」の関係性下で新しい存在の形成とその新しい世界への向かい方を探求しようとする非常に意欲的な試みであると思う。
 そして、このような本質に向かう実験的なプロジェクトの母体になることができるたんぽぽの家、この探究的な時空間の中でその実験性を楽しみ続けることができる障害のあるアーティストの方々や彼/女らと共にある方々、監修を務めたメディアアーティストや情報系の研究者の方々、そしてこの多様なプロジェクトのメンバーと協働し全体監修を務める茂さん、こういった人々でないと実践することが難しい、ある種、奇跡にも見えるプロジェクトがArt for Well-beingであるように思う。そして、たんぽぽの家のいままでの歩みを遡ると、このプロジェクトの実践の先に、たんぽぽの家が新たな「(人間/テクノロジー)→世界」の関係を持った存在や世界への向かい方を生み出し続け、テクノロジーの多元性をひらいていく世界観は十分に想像できる。
 私が生活としての芸術を実践する人たちの作品を観るなかで「社会システムを中抜きして作者が宇宙と繋がってる」という感覚は、おそらくだが「(人間/テクノロジー)→世界」の関係を持った新たな存在の形成によって世界への向かい方が発明されている状態、すなわちその作者が独自の世界との繋がり方を実現している様から感じられていることなのかもしれない。つまり「(人間/テクノロジー)→世界―¦―宇宙」であろうか。
 今回、私はポスト現象学における〈人間―テクノロジーの関係性〉を正確に理解するどころか、そのアイディアから推論(あるいは真剣に誤読)し、「(人間/テクノロジー)→世界―¦―宇宙」の関係図を生み出してしまったが、私が常々、生活としての芸術を実践している人たちの作品から受けていた感覚を全く別の角度から考えることができた。同時に、自身のプロジェクトにおける新たな指針を掲示してもらえたような気がする。引き続き、変化し続けていくであろうArt for Well-beingと『テクノロジーの〈解釈学〉』を追いかけ続けたいと思う。



註釈:

※1 展覧会「Art for Well-being 表現とケアとテクノロジーのこれから」のアーカイブがウェブ上で公開されている。 Art for Well-being 2024 「[2023年度]展示内容と関連資料:展覧会 Art for Well-being 表現とケアとテクノロジーのこれから」 2024年6月7日閲覧。

※2 ※1で挙げたウェブ上のアーカイブでダンサーの佐久間新さんとたんぽぽの家のメンバーやスタッフが〈WAVE: なみのダンスとMR〉をある種の「楽器」に、いっしょになって波を奏で踊るワークショップの記録映像がある。波と戯れるなかでランダムなフィードバックが発生することや水面の高さが変わることでパフォーマーとしての体験者のからだの動きが変わり続ける点において、本作をVRゴーグルで体験してみた著者としては、納得感がある。〈WAVE: なみのダンスとMR〉をVRゴーグルで体験すると、インタラクションとしては、非常にシンプルに感じるのだが、からだを動かしたくなる感覚や、ランダムなフィードバックによっていろんな動きをしたくなって、気づくとずっとからだを動かし続けている自分に気づく。これは茂さんの『テクノロジーの〈解釈学〉』で取り上げられていた作品〈Musicolour〉を想起させる。〈Musicolour〉は音に反応する照明装置であり、そのシステムは繰り返しの入力が与えられると「飽きる」ことで反応しなくなり、潜在的に新しい動きに「注意を向ける」ことを促すものである。扱っているテクノロジーとしては〈WAVE: なみのダンスとMR〉と比べるとかなり古いものではあるが、両者を作品足らしめる条件においては共通のものがあるように思う。そしてワークショップにおける〈WAVE: なみのダンスとMR〉は、会場にいた別々の身体特性の人々が波と戯れ音楽を奏で踊る、ひとつの共通の大きな楽器のような役割を果たしていた。これが現代において先端的なテクノロジーと見なされているXRなどのテクノロジーによって実現されている点に着目されたい。

※3 同じく※1で挙げたウェブ上のアーカイブで、新井英夫さん、佐久間新さん、板坂記代子さんという踊り手と、メディアアーティストでHCI研究者の筧康明さんの即興パフォーマンス〈とけていくテクノロジーの縁結び〉の記録映像が視聴できる。三人の踊り手による即興の身体表現も圧巻だが、ここで着目したいのはテクノロジーの使い手/つくり手として参加した筧さんの「介入」の仕草であろう。一般にメディアアートが身体表現に関わるとき、表現を増幅する、もう少し直接的に言うと派手にする、スペクタクルをつくるような役割を担うことが多いように思う。エンターテイメントに関わるテクノロジーはわかりやすく、そういったことが得意だからだ。それと比べた時、筧さんのテクノロジーの介入は非常に「地味」である。そこに筧さんの「環境」というものの捉え方や、そこにテクノロジーがどう存在するべきかという美的な姿勢を感じる。筧さんのその「控えめな」テクノロジーたちは静かに三人の踊り手たちに新たな身体表現を促す。その介入は地味でありながら三人の踊り手たちの即興性の中で生まれる匠の技としての身体表現を別のかたちでゆっくりとしずかに増幅させているように思う。

※4 同じく※1で挙げたウェブ上のアーカイブで、Neutoneを使ったワークショップで生まれた「音?楽」たちを聴くことができる。成果物を聴く中で、音と音楽のあわいのなかに身を置くような感覚があった。レコーダーを手に持っていなくとも、生活しているなかで、自分の耳に入ってくる音のなかに特定の規則性(リズム)を感じ取ったり、複数の音を重奏として感じる瞬間というのがある。成果物を聴く体験の中でそれが思い出された。自身の知覚が音と音楽のあいだに向かう強い指向性を持った場合を想起するような、ある種の幻覚に近いような感覚があった。また本文中でNeutoneを「音?楽」の制作を今までとは違う方法で多様な人々にひらく可能性を持ったものと言ったが、あえて補足するとNeutoneがただ単に「易しい」ツールであると言っているわけではない。音と音楽のあわいを探求できるツールとしてプロフェッショナルなサウンドアーティストがかなり高度な使い方をするということも十分にありえるだろうと思う。先に触れたように、自身の知覚に音と音楽のあいだに向かう強い指向性を持たせるようなものとして、サウンドアーティストがその新たな道具によって別のなにかを見つけることができるようになり全く新しいものが生まれるという、そういう世界観は十分に想像できる。

※5 茂さんのresearchmapの「公開資料」のページに『テクノロジーの〈解釈学〉』の草稿第3版のPDFが公開されている。researchmap 2024 「小林 茂」 2024年6月7日閲覧。また茂さんは本テキストを題材に読書会やXのスペース機能を使った音声配信なども実施している。『テクノロジーの〈解釈学〉』を読まれた方はそういった場への参加を通じてより理解を深めていくこともおすすめする。また著者は教員として所属している大学の授業等でも本書を学生に紹介しており、興味を持つ学生は少なくない。授業や自身の制作等でArduinoやデジタルファブリケーションなどを活用する学生などに対して、今や当たり前となったそれらメディアテクノロジーの造形環境の背景を共有し、その文脈上の制作を後押しし、よりパーソナルなものづくりに邁進できるような理論的な支えとしての教材としても本書はおすすめできる。そういった教育に携わる方たちにもぜひ読んでいただきたい一冊である。

※6 著者は自身の父の失読症をきっかけに仲間と共に文字を読み上げるメガネ〈OTON GLASS〉の開発をはじめた。それを美術館などで体験可能なかたちで展示し、その過程で目が見えづらいことで文字が読みづらい視覚障害者との出会いがあり、以降、視覚障害者と協働してプロジェクトに取り組んでいる。現在はその発展系として当事者兼つくり手による小さな生態系をつくるプロジェクト〈FabBiotope〉に取り組んでいる。〈OTON GLASS〉や〈FabBiotope〉の詳細に関しては以下を参照されたい。島影圭佑 2021『FabBiotope1.0→2.0』株式会社オトングラス。島影圭佑 2023 「OTON GLASS/FabBiotope」 2024年6月7日閲覧。また近年の活動として2022年に、多様な当事者兼つくり手の生きるための技法をワークショップ、公開インタビュー、上映会などを通じて社会にひらく展覧会「“現実”の自給自足展」を開催している。島影圭佑 2023 「“現実”の自給自足展」 2024年6月7日閲覧。

※7 TURNは「“違い”を超えた出会いで表現を生み出すアートプロジェクト」である。著者は2019年に東京?上野にある東京都美術館で開催されたTURNフェス5にて※6で触れた〈FabBiotope〉を発表している。TURN 2021 「TURNフェス」 2024年6月7日閲覧。

※8 ライラ?カセム?田中堅大?島影圭佑 2021 「これからのインクルーシブデザイン」2024年6月7日閲覧。

※9 NHK 2022「朝までno art, no life(1)」 2024年6月7日閲覧。

※10 折元立身?酒井美穂子?スウィング?村上慧 2024 「共棲の間合い -『確かさ』と共に生きるには-」 東京都歴史文化財団 東京都現代美術館 東京都渋谷公園通りギャラリー。