オウム真理教によるサリン事件、神戸での連続児童殺傷事件など、90年代後期の日本を覆った暗い影の下、 テクノロジーに神を見出し、神によって記号化される(歌になる)ことで永遠の救済を得られると信じ、 教義に身を投じる少年の“最期の儀式”を描いたオペラ『新しい時代』。 初演キャストのさかいれいしうを再び得て、一切の“アップデート”を封印し、 デジタル社会が自明のものとなった現代へ、三輪眞弘と前田真二郎のコンビが矢を放つ。
オウム真理教によるサリン事件、神戸での連続児童殺傷事件など、90年代後期の日本を覆った暗い影の下、 テクノロジーに神を見出し、神によって記号化される(歌になる)ことで永遠の救済を得られると信じ、 教義に身を投じる少年の“最期の儀式”を描いたオペラ『新しい時代』。 初演キャストのさかいれいしうを再び得て、一切の“アップデート”を封印し、 デジタル社会が自明のものとなった現代へ、三輪眞弘と前田真二郎のコンビが矢を放つ。
情報随時更新!地球規模で結ばれたデジタルネットワークはそれ自身がアメーバのように増殖し、莫大な知的情報を集積、処理する知の書物となり個々の人間の能力をはるかに超えた地球全体の頭脳となる。
いつしかその頭脳は未だ人類によっては書かれていない書物の空白部分、宇宙生成や生命起源の秘密を解き明かす基礎理論を自動生成し始め、それらは不思議な暗号コードとしてネットワーク上に流出しはじめる。
常にネットワーク上に流れ続けるこの不思議なコードの意味をついに直感した一部の人々はそれらが文字や言語ではなく、それらを楽譜化、音波に変換することによって人間の悟性に直接メッセージを伝えているものであることを知り、またその暗号は古代文明における人類にもすでに理解されていたことを発見する。
人々はそのことをネット上で報告しあい、より深く直感することによりネットワーク上に宗教ともいえる信仰が自然発生的に生まれた。この宗教の教えでは自殺、つまり肉体を捨て純粋な精神存在たるべく、神、つまり宇宙原理の生贄として自らを捧げ、美しい旋律の一部と化することによって時差を超えた永遠の摂理それ自体になることができると説く。
確かにその旋律、響きは通常使われていない人間の脳の一部を最大限に活性化する魔力をもち、それらはまた滅びていった古代文明はもとより生物遺伝子の記憶として語り継がれたものを呼び覚ます強力な覚醒力を持つのである。
この不思議な旋律は、重なり合うことによって日常ではまったく理解することのできない神の「言葉」を人間に理解可能とする唯一の「表現」であり、自らがこの神の旋律の一部となることは最終発展段階に到達した地球上の生物、人間にとっての最後の使命でもある。そして人類のあらゆる言語もまた、この「神の言葉」に起源を持っていたのである。
死のイシニエーションであるこのミサは信者にとって、人生最大の晴れ舞台でもある。ミサはネットワークから常に送られてくる不思議なコードをその場で解読、楽譜化し、音波として信者たちに共有される唯一の現実空間であり、また音によって神の言葉を現世界で聴く厳粛な場でもある。
信徒たちの前でこれから自死する「主役」であるひとりの信徒を中心に儀式は以下のように行われる。
第一部「アレルヤ」。
4人の巫女が演奏する神の旋律を聴く(神への賛美。過去にこの儀式で旅立った信徒たちの霊を再び儀式へ呼び戻す)
第二部「アーカイブ」。
主役の姿や遺伝子情報などをキャプチャーしデータとしてネットに送る(残す)。
第三部「リインカーネート」。
毒薬を呷り死に絶えるまでの間、神の教え、神への感謝、告白、を語り歌う。
特に第一部では旋律と化した、つまりこの儀式を通して過去に死んでいった信徒を確認すべく、該当する旋律部分で信徒のデータが呼び出され、尊敬と羨望の中で回想される。
オペラ「ミサ」の主役は14歳の少年である。
このオペラでは、
?4人の女性キーボード奏者による音響生成システム(主にサイン波による演奏)
?4台の小型プロジェクターによる楽譜表示、及び音楽の進行を統括するビデオ映像システム
?会場にある複数の(赤外線)カメラや用意された映像素材を大型スクリーンに投影する映像システム
?会場のビデオ映像を遅延させるビデオディレイシステム
?その他の音響素材、及び照明などを統括制御するコントロールシステム
など、特別に開発された専用システム(ソフトウェア)が複数のコンピュータによって実現され、最新のテクノロジーを駆使したもので、複雑で錯綜する会場の電子機器やネットワークそのものがまたこのオペラの表現でもある。
14歳の少年信者| さかいれいしう
儀式を司る4人の巫女(キーボード)| 岩野ちあき、木下瑞、日笠弓、盛岡佳子
(大阪大学『記憶の劇場』プロジェクト受講生有志)
信者1(映像オペレーター)| 古舘健
信者2(音響オペレーター)| ウエヤマトモコ
信者3(ミキシングオペレーター)| 大石桂誉
作曲?脚本?音楽監督| 三輪眞弘
演出?映像| 前田真二郎
メディアオーサリング| 古舘健
グラフィック| 岡本彰生
フォルマント音声合成| 佐近田展康
音響| ウエヤマトモコ
照明| 畔上康治(愛知県芸術劇場)
衣裳?ヘアメイク| 岩井亜希子
舞台監督| 山口弘晃(金井大道具NAGOYA共同企業体)
テクニカルコーディネート(舞台)| 世古口善徳(愛知県芸術劇場)
テクニカルサポート| 大石桂誉
技術協力| 松本祐一 赤羽享
広報デザイン| 岡澤理奈
制作?演出助手| 福永綾子(ナヤ?コレクティブ)
企画提案| 伊東信宏
プロデュース?制作| 藤井明子(愛知県芸術劇場)、宮地泰史(あいおいニッセイ同和損保ザ?フェニックスホール)
1958年東京生まれ。1974年都立国立高校入学以来友人と共に結成したロックバンドで音楽活動を始める。1978年渡独、国立ベルリン芸術大学で作曲をイサン?ユンに師事。1985年より国立ロベルト?シューマン音楽大学でギュンター?ベッカーに師事する。佐近田展康と共に「フォルマント兄弟」としての創作?思索?講演活動や、CDアルバム「村松ギヤ(春の祭典)」(2012)リリースなどその活動は多岐にわたる。著書に「コンピュータ?エイジの音楽理論」(1995)、さらに「三輪眞弘音楽藝術-全思考1998-2010」により2010年度第61回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。現在、欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网[IAMAS]教授。旧「方法主義」同人。
http://www.iamas.ac.jp/~mmiwa/
1969年大阪生まれ。映像作家。欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网[IAMAS]教授。映像メディアを「未知を発見する道具」と捉え、実験映画、ドキュメンタリー、メディアアートなどの分野を横断し、イメージフォーラム?フェスティバル、山形国際ドキュメンタリー映画祭、恵比寿映像祭などで映像作品を発表。舞台や美術などの他領域アーティストとのコラボレーション、上映会の企画なども少なくない。映像レーベル SOL CHORDを監修。WEBムービー?プロジェクト“BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW”が第16回文化庁メディア芸術祭?アート部門優秀賞を受賞。
http://maedashinjiro.jp/
石川県生まれ。武蔵野音楽大学にて声楽を佐伯真弥子氏に、IAMASにてアルゴリズミックコンポジションを三輪眞弘氏に師事。詩人の松井茂と詩と声のユニット「PreAva」を結成(2006)。声をテーマに活動し、これまでに幸村真佐男、銅金裕司、吉野裕司、真鍋大度、シマカワコウヂ、トリ音、ロイヤルハンチングスほかさまざまなアーティストとコラボレーションを行ってきた。金沢大学能登里山里海マイスター育成プログラムを修了し(2014)、里山で子どもと大人が楽しめる演奏会やアートイベントを企画している。「2016年3月能登、さかいれいしう。」(限定49枚)をリリース。
http://reisiu.sakura.ne.jp/wordpress/
写真| 幸村真佐男 photo by Masao Kohmra
愛知県芸術劇場 関連企画
カフェトーク ゲスト| さかいれいしう×寺澤洋子
9月15日[金] 19:30~21:00
喫茶アルス(愛知芸術文化センター地下2階アートプラザ内)
入場無料?ワンドリンクオーダー制?事前予約制
能登でユニークな活動を続けるソプラノ?さかいれいしうが、コーヒーを飲みながらまったりと語ります。
三輪眞弘+前田真二郎 トーク
10月15日[日] 14:00-16:00
アートスペースA(愛知芸術文化センター12階)
入場無料?予約不要
『新しい時代』初演時のエピソードや今回の再上演にかける思いを語ります。
第22回アートフィルム?フェスティバル
11月21日[火]?26日[日]
アートスペースA(愛知芸術文化センター12階)
入場無料?予約不要
映像表現の動向の先端を紹介する特集上映会。
前田真二郎作品特集を含め音と映像の関係を考察するプログラムあり。
17年の時を経てこのオペラが再演されることについて考えた。つまり、自分が手掛けたこれは「”オペラ”だったのだろうか」と。確かに当時、この作品を委嘱してくれた22世紀クラブの吉竹氏からは”オペラ”を、ただし「歌手は1人、楽器編成はそれほど大きなものではなく」という依頼を受けた記憶がある。そのような(限られた)条件の中で自分に何ができるかを模索した結果、ひとつだけはっきりしていたことは、無数にある20世紀の、つまり現代音楽の「新作オペラ」の様式や制作プロセスの踏襲だけはしたくないということだった。ぼくにとってそれらの多くは、結果として深遠なものだったとしても少しも面白いものではなかったからだ。だから、「オペラ(作品)」の常套を無視し、それは、歌手1人、キーボード奏者4人、声以外の音(声のサンプリングを含む)はすべて電子音響で、そこに映像が加わり、それを操作する舞台上のオペレーターが3名というきわめて特異な「編成」になった。当時の初演が京都と東京の異なるコンサートホールだったという事情もあって、会場の音響、照明設備は原則一切使わず、コンピュータ制御による自作のシステムで行い、さらに、キーボード奏者以外のメンバーは歌手も含めて(!) 全員がIAMASの現役学生だった。???今思えば、あまりにも無謀な計画だったとぞっとするほどだが、IAMASの同僚でもある映像作家の前田真二郎と共に、初演までの日数を数えながら、学内で昼夜を問わず準備作業とリハーサルを続けたことを覚えている。
コンピュータによる映像や音響制御を中心としたこのようなオペラの「実装」はそのまま、オペラの内容と直結しており、このオペラ全体がある宗教団体(「新しい時代」)の死のイニシエーション、すなわち儀式そのものの再現であるという設定にごく自然に結びついていった。つまり、オペラ全体が儀式のためにしつらえられた「仮設舞台」なのであり、映像や音響は(当時の)最先端技術を駆使した大スペクタルを目指すのではなく、むしろ、シリアスではあるが「ダサい」ものになるように演出された。言うまでもなくそれは、当時まだ生々しく感じられたオウム真理教(事件)を参考にしたからであり、彼らの”洗脳ビデオ”や”ヘッドギア”などを始めとする、信仰と現代科学/テクノロジーとの奇妙な親和性こそ、この作品で主題としたかったものだったからだ。
当時のコンピュータや周辺機器がすでに使われなくなっている17年後の今、この作品を電子機器の再現も含めて「復刻」することに、ぼくは単なる旧作の「再演」以上の意義を感じている。なぜなら、莫大なエネルギー供給と高度なテクノロジー、すなわち、「機械」なしには存在を続けることさえままならなくなったぼくたち人間の世界において、この作品は「人間のための、世界/芸術/音楽」それ自体を機械との関係において問う、初めての「オペラ」であり、また、それはすでに17年前の日本で創られていたものだからだ。今回の再演にあたり、17年前のデジタル技術による音響や映像の演出について、また、17年も前に綴られた長大なテキストに関して、「アップデートするか」どうかが何度も話し合われたが、それは一切しないことにした。なぜなら、このオペラの主題はまったく古びていないどころか、人間と機械との関係は当時より一層明確になり、問題はよりリアルなものになっているように見えるからだ。「サティアン」という社会から隔離されていた(信仰)領域の境界線が融解し、狂気に満ちた様々な「信仰」がメディア/ネットを通して世界全体に蔓延し、互いに激しく攻撃し合う、17年後の状況をこのオペラが予言していたなどと主張するつもりはない。しかし、ナノ、ニューロ、あるいは、バイオテクノロジーや人工知能などをはじめとする先端技術が飛躍的に進化した現在から振り返ってみても、その本質において、機械による「計算の対象としての人間」と、その(精神)世界がどのようなものになっていくのかを、この作品はきちんと暗示していたとぼくは感じている。「機械」によって人格が作られ、それに従属する以外に存在できなくなっていく人間のことである。それこそが、「信仰と現代科学/テクノロジーとの奇妙な親和性」という意味であり、当時のぼくが「オペラ」という形式の中で試みた人間世界の未来である。ただ、そのようなものを、人が「オペラ」と呼ぶのかどうかは今もわからない。
20年前、長いドイツでの学生生活/作曲活動に区切りをつけて、ぼくは1996年に新設された岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS、後に欧洲杯比赛投注_欧洲杯外围app-竞猜|官网)の教員に就任すべく帰国した。「科学と芸術の融合」を掲げる大垣市のIAMASという新設校で希望に満ちた日々を送る一方、ぼくはとても苦しんだ。つまり、作曲家としてこの場所、いや日本という国で自分はどのように活動を続けていいのかわからなくなったからだ。ドイツでの活動を日本でそのまま続けるにはあまりにも環境が異なり、また日本における現代音楽の状況や聴衆もぼくにとっては捉えがたいものに見えた。まさに、何から手を付けて良いのか見当がつかない「混乱」の中で1998年、4人のキーボード奏者が楽譜を読み取りながら「合奏」し、人の声を生成する演奏形態(システム)を思いつき、「言葉の影、またはアレルヤ」は生まれた。その頃のぼくの「混乱」はまた、日本社会の「言葉」に対するとらえどころのない違和感のことでもあった。その違和感が、”少年A”の事件が起きて、ひとつの形として見えてきたような気がした。徹底的な「饒舌と沈黙」そして思念。さらに、それらを突き動かす現代のメディアとテクノロジーのことである。今思えば、後述するオペラもまた同様だが、作曲家としてぼくは何とかそれらを「和解」させようとしたのだと思う。いや、ぼくにはそうする必要があったし、自分が手がける「音楽」にそれ以外の意味など見出せなかった。つまり、この作品におけるデジタル技術と人間のハイブリッド?システムが生み出す「声のような音/音のような声」こそが当時のぼくの「混乱」に対する最終的な答えだった。
それに続くタイミングで「モノローグ?オペラ」、すなわち一人芝居のオペラの依頼を受け、今度は「人間の」声そのものに挑戦することになった。もちろん、ぼくは人間がうたう歌を創ったわけだが、下記プログラムノートにもあるように、その歌の「伴奏」となる「神の旋律」と名付けられた四声部のサイン波(音)は、「歌」に対する「音」ではなく、「新しい時代」を信じる人間が自らの肉体を神に捧げることによって刻印された無数の声そのものだという設定なのである。オペラは以下のような物語による|
地球規模で結ばれた現代のデジタルネットワークは莫大な知的情報を集積、処理する知の書物となり個々の人間の能力をはるかに超えた地球全体の頭脳となる。いつしかその頭脳は高度な記号処理能力によって未だ人類によっては書かれていない書物の空白部分、宇宙生成や生命起源の秘密を解き明かす基礎理論を生みだし、それらは不思議な暗号コードとしてネットワーク上に漂い始める。
この不思議なコードの意味を直感した一部の人々はそれらが文字や言語ではなく、それらを「楽譜化」、つまり解析し音波に変換することによって人間の悟性に直接メッセージを伝えているものであることを発見し、ネットワーク上に宗教ともいえる信仰が自然発生的に生まれた。この「宗教」の教えでは神、つまり宇宙原理に従い肉体を捧げ、その個体の遺伝子情報などを漂い続ける美しい旋律に刻印することによって時空を越えた宇宙の記号過程に参与できると説く。(2000/4/22)
2000年4月22日
京都府立府民ホール”アルティ”
2000年4月27日
紀尾井ホール
作曲、脚本、コンピュータ?プログラミング: 三輪眞弘
演出、映像: 前田真二郎
ソプラノ: 坂井れいしう
キーボード: 飯村香織、旧冨あや、菊地孝枝、三井朋美
スタッフ: IAMAS "歌劇研究所" TEAM
(サウンド)上山朋子、由雄正恒
(ヴィジュアル)岡本彰生、新堀孝明
DVビデオディレイシステム開発
(Special Thanks): 赤松正行
主催?プロデュース?作品委嘱:22世紀クラブ
協力:IAMAS
(C)Masahiro Miwa & Shinjiro Maeda
歌を作りたいと長い間考えていた。しかしぼくはそれに一度も成功したことはなかった。かつて様々な形で生まれ、今でも愛され口ずさまれる多くの歌をぼくは知っている。それに匹敵するような歌がどうして自分には不可能なのかいつも考えていた。そのために音楽についていろんな勉強をしたのではなかったか、と自分に言ってみる。今、それに対するぼくの答えとして考えつくのは、歌われ、描かれるべき世界そのものが崩壊しているからなのだ、という説明である。 たしかにぼくでさえも今、そのような世界を素直に信じることはできないし、そのようなことをまじめに口にする人間をまずは疑い深く観察する習慣が身についている。この、歌われ、描かれるべき「そのような世界」とはたぶん、あらゆる意味を含む「憧れ」の世界のことである。ぼくらはそれらを科学的知見で、世界経済と競争の原理で、核爆弾で、その他様々な暴力によって端から破壊してきた。そして今、この現代においてもはや何かに「憧れることなどできるわけはない」のである。
ところで自分の目の前に見えぬ世界を見、望むものを思い浮かべて憧れることこそ子供達が生まれながらにして持つ最も力強い能力であり、これから人間になる彼らに何としても必要な訓練である。そう、もはや子供ではないぼくが何かに本気で憧れ、歌をつくる、オペラをつくるなどということは「子供じみた」時代感覚の欠如した行いということになってしまうだろう。どのように工夫を凝らしても功利的、分析的な視線の追求に際限なく追いかけ回され、歌はうそ臭くわざとらしい様相を免れないのかもしれない。
一方、なぜかミレニアムを世界中の人が祝う今年の正月のように、大人達が過去を振り返り未来を夢見つつ世界と人間との契約を確認し更新するこの祝祭的な時間の共有こそ音楽にもっとも関係の深い何かであるとぼくは感じている。それは分析的な思考が小休止する瞬間、「子供じみた」創造力が大人にも共有される瞬間でもある。そのような瞬間を夢見て今この時代に「歌なんかつくれるはずもないのに」歌をつくろうと思う。
ただしその歌は人々に勇気を与えようとするわけでもなく、未だ見ぬ世界を顕現させるわけでもなく、誰かに向けた熱いメッセージが込められているわけでもない。それは、ただ子供達が言葉遊びをしながら口にするわらべうたのように無意味な繰り返しとしての、そして無意味であるからこそ不思議なおまじないのように彼らの魂を鎮める歌である。
三輪眞弘 プログラム?ノートより