INTERVIEW 013
GRADUATE
柳川智之
アーティスト、デザイナー、プログラマー
色や形による造形への興味を
もっと先へ進めていきたい
2014年ソフトピアジャパン地区への移転に伴い、役目を終えた領家町にあるIAMAS旧校舎。当時の痕跡が随所に残る学び舎を、12年度卒業生の柳川智之さんと第3代学長の関口敦仁さんが訪れました。
お互いの近況報告から始まった同窓会のような対談は、メディアアートというフィールドを確立することの重要性、その中でIAMASが担う役割、コンピューターの進化によるアートの可能性などへと広がっていきました。
作品制作とクライアントワークを両立する難しさ
柳川:卒業してから、まだそんなに時間が経っている感じはしないんですけどね。
関口:柳川君は何年の卒業ですか。
柳川:2013年の3月に卒業しました。
関口:ということは、もう7年ですよ。久しぶりに来てみてどうですか。
柳川:外の、ドライヤーを全身に浴びているような暑さが懐かしいです。
関口:最初、大変なところに来たなって思わなかった?
柳川:思いましたよ(笑)。でも、最初だけです。
入学する前にIAMASについて詳しく調べなかったんですけど、なんとなく行くなら東京藝大のメディア映像かIAMASか、その2つの選択肢で考えていました。IAMASに決めたのは環境を変えたかったという理由が大きくて、おそらく他のみんなも岐阜という場所に何かを期待していたところはあるんじゃないかと思います。2年間、制作合宿をしているような気分で楽しかったです。
関口:卒業してすぐに武蔵野美術大学の助手になったんですよね。
柳川:そうです。IAMASの卒業と同時に武蔵美の助手になりました。
関口:助手をしていたときはどんなことをしていたのですか。
柳川:最初の数年間は、IAMASでの研究の延長線上で平面作品を作っていました。ずっと学部(武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科)の同級生の大原崇嘉君と2人で作品制作をしてきたのですが、2015年頃から古澤龍君が加わって3人体制になりました。古澤君が照明を使ったり、ハード系の作品を作っていたこともあって、ここ最近は照明を使ったインスタレーションを作っています。
関口:それは武蔵美の研究室としての活動ですか。
柳川:いえ、あくまで個人の活動として続けていました。今は、自分の研究?制作活動と、非常勤ですけど教育系の活動、クライアントからの仕事をするデザイナーとしての活動の3つがあるんですけど、自分の研究内容とデザインの仕事の内容があまり結びついていなくて、そのバランスの取り方に難しさを感じています。
関口:クライアントワークとしては、どんなことをしているのですか。
柳川:最近は武蔵美の美術館の仕事が多いですね。所蔵品のアーカイブサイトや、椅子のコレクションのiOSアプリを作ったりしました。
柳川:関口さんは若い頃、自分の制作活動以外はどのようなことをされていましたか。
関口:僕は油画の出身なんだけど、絵画作品が売れるようになるまでは、学生の頃から7年くらい予備校の先生をしていました。独立してアーティスト一本でやるようになって、2、3年くらいした頃からインテリアや店舗デザインの話が来るようになって。元々絵画に進むか建築に進むか迷っていたこともあって、建築にも興味があったので、インテリアの仕事ばかりしている時期もありましたね。
それで、貯めたお金でしばらくフランスに行って、戻ってきてからは映像系とか CG 系の仕事がしたいなと思い、知り合いのプロダクションで働いていました。CG で15秒のコマーシャルを作ったり、「クレヨンしんちゃん」のグッズのコマーシャルを作ったりとか、NHKやフジテレビの番組の背景の CGを 作ったりとか、そんなことをしていました。
「ウゴウゴルーガ」なんかを制作しているスタジオで、前林(明次)さんに初めて会ったのはその頃でしたね。前林さんとプロダクションにいた同僚を通じて、MAXの存在をしって、そのテキストを書いていた赤松(正行)さんのことも知りました。その後、坂根(厳夫)さんに声を掛けてもらって、IAMASに来ることになりました。
柳川:関口さんは、コンピューターが出てきてすぐに、方向転換をしようと思われたんですか。
関口:作家活動はずっと続けながら、その一方でコンピューターを買って、スクリプティングとか簡単な言語を使って遊んでいました。
柳川:ゆくゆくは作品に取り入れようと考えて、試されていたのですか。
関口:作品に取り入れるというよりも、自分が形を作ったり色を決めたりして、作品を作ること自体の必然性をあまり感じなくなってきて。コンピューターや数学的な手法だけでジェネレートするようなことができないかなと考えていました。その方が突き放して作品を作ることにつながるかなと考えていて。いずれはそういうことがしたいなと思って始めたのが一番の理由ですね。ただ、そこの深みまでいくのはなかなか大変なので、最近になってようやく、ディープラーニングを取り入れながら、作品を作ることにシフトできるかなという感じになってきました。
IAMASは表現と技術を一体にして制作することが機能している場所
柳川:最近はどのようなことをされているのですか。
関口:愛知県立芸大学では、環境デザイン領域を担当していて、デザイン全般のことを教えています。個人の活動として作品を発表したり、デジタルアーカイブの活動をしたりと、広がりを持ってやっているというスタンスはIAMASにいたときと変わらないですね。
ただ、IAMASを出てから、メディアアートを訴求するための啓蒙的な活動をしていかなければと感じるようになりました。特に80年代のビデオアートからずっと続いてきた、メディアアートの継続性を伝える活動を、様々な事業を通して取り組みはじめています。
柳川:おもしろそうですね。例えばどのような事業ですか。
関口:一昨年は文化庁との事業で、子弟というほどの強い繋がりじゃないけど、教育研究機関での教えた/教えられた関係性が見えるような、教育機関による系譜を作りました。セミトラ(Semitransparent Design)にインターフェースのデザインをお願いして、この英語版を9月のアルスエレクトロニカで展示する予定です。
柳川:今メディアアートと言うと、技術寄りのイメージがどんどん強くなってきていて、僕もそうなんですが、周りの友人達を見ていても、意識的にメディアアートをやっている人は少ないように感じます。コンピューターを使って美術表現をしているという感覚で、メディアアートを意識することはあまりないと思うんですけど、そのことについてはどのように感じますか。
関口:メディアアートという意識はだんだんなくなっているし、映像も含めて、コンテンポラリーアートの方に近づいている感じはしますね。
実は僕もIAMASに開学当初からにずっといたけれど、同じように、メディアアートをやっているという感覚はなかったんだよね。メディアアートの本流にいたにもかかわらず、先生たちも学生も含めて、誰もそういう自覚はなかったと思いますよ。
結局、フィールドは意図的に打ち出していかないと確立していかないものなので、IAMASにいたときにそれができなかったという反省も含めて、今フィールドを作る活動をしているという感じですね。
柳川:外に出たからこそ、客観的に見られるということもありますよね。
関口:それはありますね。一方で、大阪芸術大学など色々な大学で、技術を含めてメディアアート的なことをやっていくような専攻が増えてきている中で、そういうところとIAMASでは、明らかに目指しているものが違うという状態が続いているし、今後も続いていくと思っています。
つまり、専攻の中でメディアアート的なことを教えることと、表現と技術を両方分かった上で作品を作ることが乖離してしまっている。IAMASは表現と技術を一体にしてやっていくことの意味を知らせる場所として適切だったし、そういう場所として機能していることをもっと全面に打ち出していけばおもしろいんじゃないかと感じています。
柳川:僕がIAMASに来て良かったなと思うのもそこですね。同級生たちは日常会話の中でハード面でもソフト面でもテクニカルな話を当然のようにするんです。今までの人生でそういう人たちが周りにいなかったのでとにかく新鮮でした。それまでは難しいことは専門の人に任せればいいという感覚があったんですけど、IAMASでは分からなかったらゼロから自分で覚えればいいじゃんという雰囲気があって、美大出身の自分にとって、それは大きなことでした。
関口:絵を描いたり、デザインしたりする技術も経験なんだけれど、同様に工学的な情報を知るとか、情報技術も経験だと思うから、その経験の現場にいるかどうかというのは結構大きいですよね。2年間いただけでも、工学系の人とある程度の共通言語を持つことはできるようになるので。
柳川:そうですね。
関口:自分で敷居を作ってしまう癖がついているだけれど、IAMASにはその敷居を外していくような環境があるし、逆にその中での自分の立ち位置もはっきりしてくるしね。
柳川:僕は、武蔵美の中では技術系のイメージがあるみたいなんですよ。IAMASでは完全にデザインの人っていうイメージで、アイデンティティが行ったり来たりしているというか、コミュニティによって立ち位置が変わってしまうところがあるのもおもしろいです。
技術的な経験ができるということは、入学前から結構期待していた部分ではありました。でも、授業では教わるわけではないんですけどね。
関口:授業では何も教えてくれないよね(笑)
柳川:同級生たちに教わったという感覚ですね。
あとは、IAMASは教員の数が多くて、僕が1年生のときのゼミは、自分一人に対して、関口さん、瀬川(晃)さん、山田(晃嗣)さんと3人の分野の違う先生がいて、毎週3人に自分のやってきたことを説明するという環境にかなり鍛えられた気がします。あれは良い経験だったと今でも思いますね。
関口:先ほど話していた、最近一緒に制作をするようになった古澤君は技術系が得意だったんですか。
柳川:古澤君は一昨年までRCIC(IAMAS産業文化研究センター)にいたのですが、もともと東京藝大で藤幡(正樹)さんの研究室にいて。テクニカルのことも詳しかったので、色々と新しい風を入れてくれました。
関口:藤幡さんと言えば、今展覧会やっているね。まだ観に行っていないけど。
柳川:先日トークを聞きに行きました。
関口:柳川君から見て、藤幡さんはどんな感じで見えるんですか。
柳川:藤幡さんはメディアアートの象徴なイメージがありますね。藤幡さんの活動を見ていると、別にテクノロジーを使ったからメディアアートになる訳ではないと分かるというか、メディアに対してメタ的に見るという視点を、藤幡さんの本などから学んだ気がします。藤幡さんのような方がいないと、それこそ昨今の「メディアアート=新しい技術のプレゼンテーション」という印象が強くなってしまいますよね。
関口:藤幡さんは元々社会批評の点からのデザインという部分で入って、それに例えば造形的な要素を加えたりという感覚でやってきた人だと思います。そういう意味では、技術が社会に与えた影響やイメージだとか、技術自体がインフラとして何を提供してきたかということに対して、普段の生活からどういうアプローチができるのかというところが強いですよね。他にそういう表現の仕方をしている人があまりいないし、技術は技術として受け入れている作品が多いので、技術がなぜこの社会の中にあるのかということを問うような人たちがもっと増えてきてもおもしろいかなと思うところはありますね。
関口:柳川君は今後どういう活動をしていく予定ですか。
柳川:宣伝になってしまうんですが、OPEN SITEという公募に通ったので、その展示が11月にTOKAS(トーキョーアーツアンドスペース)であるので、今その準備をしています。そこで展示する予定の作品もそうなんですが、IAMAS時代から、色彩とコンポジションを含めて平面の中にどう造形的に構成していくかに興味があって、それをコンピューターを使って更新したいというのがあるので、今後もそれをやり続けていきたいなと考えています。
関口:IAMASにいた頃から、色彩の仕組みを人間の側がどう受け取るかみたいなことに興味があったと思うんだけど、それは変わらないんですね。
柳川:それは変わらないです。研究をしていると色々とおもしろい要素が出てくるので、その枝葉みたいなところで作品を作っているというイメージですね。
関口:なぜそういうことに興味を持つようになったのですか。
柳川:学部の時に美術手帖で岡崎乾二郎さんが監修した「現代アート基礎演習」という特集があって、その中に出てくる色彩の扱い方や無重力の概念などに衝撃を受けて、自分もこういうことがやりたいと強く思いました。でもそれを今の時代にそのままやっても仕方がないので、コンピューターを使って、その考え方のもう少し先まで行きたいというのが動機としてありました。やりたいことが決まっていたので、IAMASでもそれを進めていました。
関口:最近になって、色々な脳のプロセスのアルゴリズムが発見されてきて、だんだんコンピューターでできることも変わってきたし、これからまたガラッと変わって行くと思うのだけど、そう言う意味ではもう少し待ってればタイミングがやってくると思いますね。ただ研究者はこちら側でオーガナイズして意図的にそういう方向に持っていかないととできないところがあるので、そこをガンガンやっていくとおもしろいんじゃないですか。
柳川:関口さんは、今後はどのような活動をされる予定ですか。
関口:近々のことで言えば、僕も宣伝になってしまうけど、9月のアルスエレクトロニカで展示するCampus展のとりまとめをしています。今年はアルスが40周年で、シンポジウムも行われる予定で、それに四方幸子さん、畠中実さん、草原真知子さん、河口洋一郎さんと参加します。その後は名古屋のギャラリーで個展をして、来年は東京のO美術館で回顧展をします。そこでは80年代の作品から現在まで展示します。
一昨年くらいからアートロボティクスに興味を持っていて、何をするかと言うと芸術の生成自体を保存できるかどうか。どうして人間が芸術的な質を高めることができるのかということをデータ化、定量化できるのであれば、おそらくロボティクスにもっていけるのかなと思うので、アートロボティクスをこれから何年続けていこうと考えています。