INTERVIEW 030
GRADUATE
安野太郎
作曲家/2004年修了
社会における作曲家の役割を模索し続ける
2019年「第58回ヴェネチア?ビエンナーレ」で日本代表作家として展示を行い、ますますエネルギッシュに活動を続ける作曲家の安野太郎さん。キャリアの転機を迎える中、代表作である「ゾンビ音楽」が誕生した経緯や今後のビジョンについて、“師匠“でもある三輪眞弘教授と語り合いました。
修士研究とソレノイドが出会って生まれた「ゾンビ音楽」
三輪:まずは『ゾンビ音楽』という作品がどのような経緯で生まれたかを聞かせてください。僕からは、IAMASで模索してきたことを卒業後に色々と展開した結果として、『ゾンビ音楽』にたどり着いたように見えていました。
安野:そうですね。『ゾンビ音楽』を始めたのは2012年で、IAMASを卒業したのが2004年なので、8年ほど間があります。卒業後の1、2年は実家の埼玉に戻って、アルバイトをしながらボヤボヤしていました。その頃は自分自身の作曲活動と、バンド、パフォーマンスグループ『方法マシン』の活動をして、年に数回発表するというような生活でした。
三輪:それでもめげずに、決してやめようとは思わなかったんだよね?
安野:そうですね。少しずつ薄くめげながらも(笑)、やめはしなかったですね。
他の分野の方とも交流する機会を作り、演劇の音楽なども担当したことがあります。そうした繋がりから、アートを担当されている横浜市の職員からヨコハマホステルヴィレッジというまちづくり型ツーリストホステルの住み込みの仕事を紹介されました。簡単なフロント業務をする代わりに1日2食付きで部屋が借りられるというもので、自立して音楽活動を続けるためには良い条件だったので、そこに拠点を移しました。
三輪:いろいろな仕事をしながら、音楽活動を続けていたんだね。
安野:はい。そうしているうちに、「ZAIM 横浜創造界隈」という「旧関東財務局」の建物をアート活動の場として活用する事業がスタートしたので、それに応募して一部屋借りられることになりました。ホステルから1kmくらいの距離だったので、ZAIMがリビング、ホステルが寝室というような感覚で過ごしていました。
三輪:アトリエができて、活動を続ける環境が整ったんですね。
安野:そうです。横浜をベースに音楽映画のコンサートをしたり、『サーチエンジン』という、「楽譜」というような簡単なワードで検索したピアノ曲を初見で上からすべて弾いていくというコンサートを開催したりしました。
三輪:あのコンサートを見て気がついたのだけど、きちんと書かれた楽譜って意外に少ないんだよね。演奏者が戸惑っていたのが面白かったです。
安野:サーチエンジンでの検索は平等だと思っている人が多いと思うんですけど、実は偏りがあるということも発見でしたね。「日本の曲」で検索したときに一番に出てきたのが、たしかスーパーマリオで。スーパーマリオというゲーム音楽が日本の音楽として最初に出てくるという検索結果に、検索エンジンのベースにあるアメリカからの目線みたいなものを感じました。
三輪:なるほどね。そうした活動が、どのように「ゾンビ音楽」のコンセプトに結びついていったのですか。
安野:その後、東京藝術大学の音楽環境創造科での助手を経て、日本大学芸術学部音楽学科で非常勤講師になりました。そこで、学生がソレノイドを使って小さな鉄筋を動かすロボットを制作しているのを知って、「こんなに簡単にできるんだ!」と驚きました。僕もソレノイドを取り入れてみたいと思い、IAMASの修士の時に取り組んでいたリコーダーと組み合わせて、ロボットが演奏する音楽のプロジェクトをスタートしました。
仕組みとしては、笛を演奏する為の運指をnビット(リコーダーの場合は8ビット)の数列に見立てて、そのnビットの数列を操作し構成することによって作曲を行い、それをソレノイドの指が演奏するというものです。自動演奏機械で人間を超える音楽を追求した結果、人間でも超人間でもない非人間的な音楽が生まれ、それを「ゾンビ」という言葉で表現しました。
三輪:IAMASの修士ではリコーダーのビット運指の研究をしていたから、その基盤とソレノイドが出会ったということですね。
安野:当時はあまり制作費が十分でなかったので、演奏者に依頼ができなかったという事情もあり、自動演奏機械を使うことで解決できるという利点もありました。
三輪:そこからはどのように展開していったのですか。
安野:色々と教えてもらいながらまず1体目を制作し、そこからロボットの数を増やしていきました。最初の公演は自分で企画しました。
三輪:つまり誰からの委嘱もないけれど、自主的に動いたと。
安野:そうです。元々僕の音楽活動はバンドから始まっているので、自主的な活動が普通で、その時も自分から始めました。2012年の11月に清澄白河駅の近くにある多目的スペース「snac」で、安野太郎のゾンビ音楽『デュエット オブ ザ リビングデッド』というソプラノリコーダーとアルトリコーダーのデュオコンサートを開催しました。
ただ、やはりコンサートだと見てもらえる人の数が限られるので、名刺がわりに渡せるCDを制作して。それがきっかけとなって京都芸術センターや名古屋パルルなどでのツアーにつながりました。
三輪:演奏装置があって、コンセプトも固まってくる中で、この方向で行けそうだと自信があったわけですね。
安野:なぜだか、根拠のない自信はありました(笑)。
運を掴むのも実力
三輪:実際に「ゾンビ音楽」は徐々に認められていくわけですよね。
安野:2015年にフェスティバル/トーキョーに参加したことが大きな転機となりました。
初期のゾンビ音楽は、エアコンプレッサーでリコーダーに空気を送って音を発していたので、空気をためるために15分に1回轟音が鳴る仕様になっていました。フェスティバル/トーキョーでは約1時間の公演を予定していたので、その間に何度も轟音が響くのは耳障りだろうと。それで、古いパイプオルガンを参考に、舞台セットの一部としてリコーダーに空気を送り出す、幅2m x 奥行き2m x 高さ4mの大型ふいごを舞台監督の書いた設計図をもとにバルーンの業者と鉄工所に作ってもらいました。教会の裏にふいごがあって、それを踏んでいる僧侶の絵が残っていたので、それをそのまま再現する形で、ふいごを踏む人たちもパフォーマーとして舞台上に取り込んで”オペラ”を公演しました。
その時のふいごを譲り受けて、次の発表の機会を伺っていたのですが、装置が大掛かりになりすぎたことで逆に機動力がなくなって苦戦しました。ようやく1年後の2017年に『清流の国ぎふ芸術Art Award IN THE CUBE』で作品募集があって、運搬費をまかなえるくらいの制作費が下りるということだったので、気合を入れて応募しました。
僕は元々何事も過剰に作り込んでしまうタイプで、その時も言葉だけで伝えられる自信がなかったので、作ったことのない模型まで作って提出しました。小学生の図工レベルの出来栄えだったはずです。
三輪:僕も審査の場にいたんだけど、たしか応募の規定サイズを超えていたんだよね。それでも考慮してもらえたのは、安野くんの熱意が伝わったからだと思います。
そして、その時展示した『THE MAUSOLEUM ー大霊廟ー』が見事に高橋源一郎賞を受賞しました。
安野:はい。そこでたくさんの方に見ていただくことができて、横浜の「BankART studio NYK」で『大霊廟II』のパフォーマンスをさせていただく機会を得ました。ちょうど「清流の国ぎふ芸術」を引き上げるタイミングだったので、途中で横浜による形で、運搬費も節約できたんですよ。
三輪:いや、話を聞いていると、本当に運がいいよね。でもそれを掴むのも実力のうちだから、素晴らしいと思います。
その“自分にやれることは全てやる”という姿勢は、僕が安野くんと初めて会った時から変わっていないよね。今でもよく覚えているんだけど、僕が東京音大に呼ばれて講演した時に安野くんからメールが届いて。「IAMASに来たい。とにかく何でもやります!」って書いてあったんだよね。心構えが違うなとすごく驚いて、とても印象に残っています。
安野:高校の頃に作曲がやりたいと思って東京音大に入ったのですが、大学では自分から誰か特定の人に習いたいという思考があまりなかったです。三輪先生が東京音大に来られた時に自作(ヴィオラ?ダ?ガンバの作品や、「新しい時代」)の話をされたのを聞いて、「これまで見聞きしてきた作曲家と全く違う!」と衝撃を受けました。「これはいいぞ!」「ここに行くしかない!」とメールするに至ったんです。
三輪:IAMASは音大でも芸大でもないわけで、それでも行こうと思うのはすごいよね。
安野:初めて「弟子入りさせてください」というようなことを言いましたね。若気の至りでした(笑)。
三輪:熱意は十分に伝わってきましたよ。IAMASに入ってからもその意気込みは変わらず、それまでやってきたであろう現代音楽の手法で整った曲を書くより、全く違う発想で表現することにチャレンジしてくれたし、「楽譜とは何か」というような本質的な問いも追求してくれた。僕としては、「いいぞ、悪くない方向だからそのまま行け」って感じでしたね。
安野:運が良かったです(笑)。
社会と闘い、苦しむ姿を隠さず見せるのが良い先生
三輪:フェスティバル/トーキョーからいろいろな展開が生まれ、最終的に「ヴェネチア?ビエンナーレ」につながるわけですね。
安野:横浜のBankARTでは岐阜と同じ機材の構成で、そこにふいごを踏む人間を加えてコンサートをしました。ヴェネチア?ビエンナーレでキュレーターを務めた服部浩之さんが岐阜の展示や横浜の設営などを、見にきてくれました。そこから出会いが生まれて。美術家の下道基行さん、人類学者の石倉敏明さん、建築家の能作文徳さんと僕の4人で、「第58回ヴェネチア?ビエンナーレ国際美術展 日本館」で『Cosmo-Eggs』という共同展示を行いました。その翌年からコロナの感染拡大の影響があったので、そういう意味でもすごく運がいいんですよ。
三輪:「ヴェネチア?ビエンナーレ」以降、最近はどのような活動をしているのですか。
安野:コロナ禍で色々と決まっていた仕事が全て延期になってしまったので、大学の教員の公募にいくつかエントリーしました。2021年から愛知県立芸術大学で准教授として働いています。
それと並行して、ちょうど延期になっていた京都芸術センターでのパフォーマンスができることになったので、自分がこれまでどんなことをしてきたのかを知ってほしいという気持ちもあり、2022年3月に「『大霊廟III』ーサークル?オブ?ライフー」という公演を行いました。
今回は、コンサートだけではなく、音楽家がどうやって音楽を始め、どのように生きて、これからどこに向かおうとしているのかをいろいろな人にインタビューして、ゾンビ音楽と人間(音楽家の営み)を重ねて見せるという、わりと突っ込んだ問題をテーマで作品を発表しました。
三輪:「音楽家がどのように収入を得るのか」とか、「現代の実社会の中で音楽家がどのような存在としてありえるのか」ということが、安野くんの頭には常にあるのだと聞いていてすごく感じました。
僕がIAMASに来た時もそうだったけど、常勤の職を得たことによって作曲なんかしなくても生きてはいける。それを「ついに作曲しなくても生きていけて良かった」と思うのか、「誰からも受け入れられない曲を書いてでも生きていきたい」と捉えるのかでは180度違うわけですね。その点をどう考えているかを踏まえて、どのように将来像を描いていますか。
安野:自分の活動を続けていきたいという気持ちはあるのですが、僕自身の立場が変わってしまった部分があるので、今そこに悩んでいるところです。表現が難しいのですが、僕が弱い立場ではなくなったというか。弱い立場にいたからこそ、「ゾンビ音楽」のコンセプトを発想できたし、強気に打って出られた部分があったのは事実なので。
三輪:そうなんだよね。僕もIAMASに来た時、権力構造の中に組み込まれたなと思ったからね。要するに、学生の成績をつけることすら権力なわけで、その立場になった自分をどう捉えるのかは、僕自身もすごく考えました。肩書きがつくことで、これまでと同じ言動をしても嘘になってしまうこともあるだろうしね。
安野:そこがまさに次のビジョンを描くために必要な、ここから1、2年の僕のテーマです。
いま学生を何人か受け持っているのですが、自分の活動を続けて、その姿を見せていかなければと思っています。三輪先生もずっと活動を続けていて、僕はその姿を見て学んだことも多いので、学生とのコミュニケーションも授業だけではなく、作家活動を通してもやっていきたいとは考えています。実際に展示を見に来てくれる学生は少なくて、まだまだこれからではあるのですが……。
三輪:それが正しい結論だと思うよ。自分の表現活動をやめないで、社会と闘って、苦しんでいるところを隠さずに素直に見せる。それが一番良い先生だと思いますね。
特に作曲家は、自分でやって見せて失敗することもあるし、社会との軋轢を産むこともある。その中でどうやって生きていくかを見せるしかないよね。安野くんは、そういう意味でも期待の星で、すごく楽しみです。
取材: 2022/09/02 愛知県立芸術大学
編集: 山田智子 / 写真: 太田宙